2015年6月2日火曜日

02/06/2015




「僕がこの仕事をする意味ってなんだろう?」と考えた。

地方の町でお客様に良いお菓子を届けたいと願って仕事する人は
この先も次々と出てくるだろうし、僕の代わりはいくらでもいる。

ここにしかないとか、オリジナルのとか
そんな事はまわりの人が決める(結果としてあとからついてくる)事で、
自分で見出そうとするものでもないのかな。

自分が師匠や諸先輩方から教えてもらったこと、
食べ物に携わってきたなかで、学んだ事や気付いた事を
また誰かに伝えていきたい。
正しいか正しくないかはわからないけど、
思ったことを発信し続ける中で
僕が先達にそうしてもらったように、
また誰かの気付きの一助になれたら.......
それもすらも自我にとらわれた
私利私欲での行いなのかもしれないけれど
あくまで自己顕示ではなくて
次の世代のためなのだと。
全ては次の世代のため。
大人は子供たちの為にいる。
レスター・ブラウンさんが昔に述べたという
「この地球環境は祖先からの遺産ではなく、
 未来の子どもたちからの借り物だ」という一節。
わかるようなわからないような、でも心にグッと迫るものがある。

どう生きるのか?を考えると
どう死ぬのか?も考えるようになる。
自分の持つ死生観。
今は死は怖くない。(痛いのは嫌だけど)

そんなふうに考えてたけど
風邪をひいて熱が出たりしただけで
とっても弱気になったりする自分もいる。
歳を重ねて身体が思うように動かなくなったりすると
死生観も変わってしまうのかな?と不安に思っていて
先日ある方に相談すると
“いまを幸せだと思えない人は、きっと死の間際になっても幸せだと思えない”
と教えていただき、心のモヤモヤが無くなっていくのを感じた。

三人称の死は、自分がいなくなっても
世の中は変わらず動き続けるから考えても仕方がない。

二人称の死は、いなくなっても出来るだけ迷惑をかけないように
いろんなことに備えたいと思ってる。

一人称の死は、終わったらそれまで。
テレビの電源を切ったようにプツッと途切れるんだろうなと思う。
好きなことをさせてもらえて、人に支えてもらって
ありがたくって、ほんと生きてるだけでまるもうけ。
毎日が精一杯だから、突然終わってもきっと悔いはない。
今在る幸せをかみしめたい。

YO-KINGが唄ってた
“僕は世界に遊んでもらってる”
だんだん、それを実感出来るようになってきた。

いろんな無駄が削ぎ落されて
心が軽くなってきた。
ただただ良いものが作りたい。
作れるようになりたい。

開店して四年目の今日、そんなことを強く思いました。














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